日記

5/19

未明に、岡崎くんにDVDを借りた塩田明彦の『カナリア』を見はじめ、明け方に見おえる。3時間程度寝る。9時すぎに起き、飯田橋に向かう。遠藤さんと待ち合わせてアンスティチュ・フランセで11時からルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』を見る予定が、途中で二人とも間に合わなそうだということが分かる。とりあえず飯田橋に集合することになるが、間違えて市ヶ谷で降りる。駅前の本屋に寄るが、講談社文芸文庫がなく、地下でもないのに電波が通じない意味不明の店舗だったので即座に退店。飯田橋まで神田川沿いを歩く。飯田橋ラムラのウェンディーズで遠藤さんと合流。土井さんと一分程度通話をする。Bluetoothイヤホン。アピチャッポンの『フィーバー・ルーム』、岡田利規 の『プラータナー』の話など。チケットを早く買わないと。遠藤さんとはアンスティチュのバカンス映画特集に行こうと決意を固める。アラン・ギロディーもミゲル・ゴメスも見たことがないから見たい。アンスティチュのサイトでは『日曜日の人々』はウルマーの監督作ということになっているが、これはウルマーだけでなくシオドマクやジンネマンらの共同監督作ではなかったか(後で調べたところ、監督はウルマーとシオドマク、ジンネマンは演出と撮影の助手、脚本がビリー・ワイルダーとのこと)。そういえば『カナリア』を見る前は、ラウル・ルイスの長編がYouTubeにたくさんアップされていることを発見していた。ラムラ前の特設ステージで12時からハコイリ♡ムスメのリリイベを20分程度たのしむ。ここに集まっているオタクたちと同じ時間アンスティチュのホールに座っているであろうシネフィルたちにはどういう違いがあって彼らは別々の道をすすむことになったのか。自分の中では青い衣装の戸羽望実さんがかわいいということになったが、帰宅後に写真を調べるとそれほどでもなかった。遠くからで、よく見えていなかったせいだ。彼女たちが歌って踊る後ろに大きな木が立っていて、ちょうどこの前見たロメールの『木と市長と文化会館/または七つの偶然』の木のようでもあり、感動した。L'Arbre, le maire et la médiathèque

今泉力哉の『愛がなんだ』を見るため新宿に移動。上映前に花園神社を物色すると、田中絹代が監督した『月は上りぬ』(これはとてつもない傑作だと思う)という映画のポスターが売っていた。買えばよかったようにも思うが、ポスターを買ってよかったことなど今まで一度もなかった。テアトル新宿は女子大生であふれていて、前の回を見終わった客を目当てにした宣伝用の取材班がうろついていた。この期に及んでさらに動員を伸ばそうとしているのか、と感心した。予告編、鈴木卓爾の『嵐電』は面白そうだ。『愛がなんだ』の本編がはじまりかける。メ〜テレはたしか『寝ても覚めても』も製作していたよね、すごい、と遠藤さんが言う。『愛がなんだ』は、こんなにみんなが見ている映画なのだから、いい映画のはずはないと確信していたので、かなり真剣に、すべてのショットを記憶するつもりで見てやろうと意気込む(本当はどの映画を見るにしてもそういう態度でのぞまないといけないのだが)。見おわって第一声に遠藤さんは「こわかった」と言い、僕は「ふざけてる」と言った。深川麻衣の顔がはじめて捉えられるショットだけ、照明にしても気合いが違ったように見えた。この映画を90分におさめないのは、驕った態度だと感じる。カネコアヤノが遊具の上でジャンプするショットとふて寝するショットを撮ったことだけがえらい『退屈な日々にさようならを』は142分だったが、それもおかしい。Homecomingsの主題歌はよかった。映画では「なんなら」という日本語が4回使われるのだが、そのどれもが誤用で落ち込む。テアトル新宿の地上に出る階段の途中でめざましテレビのカメラが場内から出てくる人たちをうつしていた。うつりたくなかった。近くのカレー屋「ガンジー」で悪いところをあれこれ言いあい(エビカレー)、僕はアルバイトに向かう。1時すぎに帰宅。一週間のほぼ唯一の楽しみである『乃木坂工事中』、『欅って、書けない?』、『日向坂で会いましょう』の3本の録画を立て続けに見る。上村ひなのがここにきてすばらしい。有識者の指摘にもあるとおり、佐々木久美の不在により各々のメンバーの主体性が顕わになった先週と今週の放送は、とりわけ上村ひなのが「本当」を見せてくれている。この15歳は、実のところ常にふざけている。たったひとりで3期生として入ってきた彼女が、1期生や2期生にすっかりなじんで、そして他の誰よりも「本当」にふざけている、と分かりはじめたとき、涙が止まらなくなる。もちろん上村ひなのだけでなく、全員が光にみちている。影山優佳が昨年6月にしたためた現時点で最新のブログ記事の、

これからひらがなけやきは超人気グループになります。グループだけじゃなくてメンバー一人一人にスポットライトが当たるようになります。/これは私の勘に過ぎませんが、そうだと信じています。

というたしかな予感の言葉を噛みしめる。

 彼女たちの、心の中の最も子どもじみた領域を思うさま開放して、一瞬の夢のような運動を我々に見せてくれるまでに至った生活、これまでの日々。感知できる永遠の中の宇宙の均衡のほんのひととき。こんなものを知ってしまっては。

6/18

何か本がないかとすでに会社に行った父親の部屋に入るとベッドの枕元にいとうせいこう『想像ラジオ』が置いてあったので大学に行く電車で第一章だけ読んだ。サンガツのEPを繰り返し、と、玉名ラーメンを聞いた。3限では最後の30分にイジー・メンツェルの『厳重に監視された列車』が流されたが、映画を一部だけ見ることがあまり好きではなく、ほとんどスクリーンを見なかった。夛田さんにジョン・フォードのBOXを借りてメルシーで岡崎と会う。メルシーで、はじめて、濃いめ・固め・ネギ増しを頼んだ。「コイカタ」と大声で言っている大学生がよくいるが、「コイカタ」と言うのが恥ずかしいので「濃いめ、固め、ネギ増し」と言った。おいしくなかった。昨日の夕食の時間に母親と険悪になった話題があり、それを岡崎に伝えた。映画やドラマで食事のシーンになるとそしゃく音や食器のこすれる音が不快で、それは3年前に山下敦弘の『もらとりあむタマ子』を見ていたときに気がついた。母にそれについてどうかと訊ねると、現実でくちゃくちゃ音をさせて食べている人がいたらいやだが、映画やドラマでは必要だからそういうシーンがあるのだし、それほど気にならない、ということを言った。演劇を生で見ていて実際にものを食べるシーンが出てきた場合はどうかと訊いた。それも気にならないと言われた。画面のこちら側とあちら側で隔たりがある映画やドラマと違って、食事シーンを生で観劇するのは、母にとって、現実で食事をしている人と同じ空間に居あわせることとどんな違いがあるのかと疑問に思った。それなら、今僕が目の前で汚い食べ方をしたらそれは不快かもしれないが、それが上演であればどうなのかとさらに訊ねた。僕の食事が「食事をする」という上演であるということも可能ではないか?母は、ここには舞台がないじゃないか、とか、私はお金を払っていない、などと反論した。舞台がない演劇など珍しくもなんともなく、お金を払わなければ演劇ではないということもまったくないはずなのだが、次第に会話の雲行きが怪しくなっていたのでそのあたりでこの話題はやめることにした。演じる側と観る側がお互いにそれが演劇だと了承している場合にだけ上演の空間が生まれるのかもしれないと気づき、日常生活のなかで有益な発見ができたことを嬉しく思う。『もらとりあむタマ子』と言えば、同じく前田敦子が主演の黒沢清『旅のおわり世界のはじまり』はほとんど意味がなかった。岡崎はオスカー・ワイルドの『サロメ』を持っていた。また、「説話論的磁場」とは何かを考えていた。リゾームノマドの話をされたがドゥルーズを読んでいないので勘弁してほしい。岡崎→タンメンと半ライス。文キャンの喫煙所で堤くんから『らんちう』の第一号を買った。不吉霊二がいて、新作の漫画を読ませてくれた。家に帰ってDVDでギヨーム・ブラックの『遭難者』と『女っ気なし』を見返した。『女っ気なし』の、ヴァンサン・マケーニュが上着を手に持って街路を歩いているシーンは、映画館で見たときも今日テレビで見たときも中原昌也、と思った。『遭難者』は、実はずいぶん脚本がいいのかもしれない。昨日寝る前に『のび太結婚前夜』を見て泣いた。あんなに美しい夜の川は見たことがない。『海獣の子供』の監督。